出羽三山。
- 益子晃人
- 9月20日
- 読了時間: 7分
更新日:10月4日
月曜にかんたんに書かせて頂きましたが、少し時間をおいてもう少し備忘録を。

先日の行の帰り道。
鱗雲が見え、さすがに秋の気配を感じました。
今日もすっかり涼しくなり、お彼岸を前にさすがに暑さも和らいできましたねー
季節の変わり目、皆さんも体調にも十分お気をつけくださいね!
出羽三山の宿坊、大聖坊にて山伏修行に参加したのは、この数年地元の那須でお手伝いをさせてもらっている那須の抖擻行していたからに他ならないのです。
この那須で行っている抖擻行は一日だけの山と向き合う時間でもある。
この抖擻に出会うまでは、ただのアウトドア好き。
その私が、地元の木を使い、地域に根ざした暮らしをつくることを生業としている。
そんな自分が今、ここで暮らしているのは地域の自然があるからこそ!
その思いこそが、地域の山神様に感謝をし、その祠にご挨拶に行くことから始まっているのです。
年に5,6回くらいは那須の山へ登りご挨拶させて頂いていました。
その私が那須の抖擻に出会い
毎年、宝冠を被り注連をかけ、金剛杖を持ち山をめぐります。
この那須で行っている“抖擻行”もまた無言行です。
元々、無言になることで己に集中し、より自然を感じるものとなる。
そんな風に感じていました。
しかし、山形での三日間は違っていたのです。
無言でいるということは、集中したり研ぎ澄まされていくものではなく、
何も考えずに素でいることだったのです。
ありのまま
木の葉が風にたなびくように自然と一体になるということ。
足元に転がる小石もきれいに咲く花たちも何も言葉を発することはありません。
人という自然が、我を出さずにすべてに“うけたもう”する。

先達の声に『うけたもう』し
それぞれの拝所にて勤行を唱える。

勤行を唱えてはいるけれど、やっていることは初詣にいっているようなもの。
特別なことではないのかもしれません。
ただ、その場の全員で祈るのです。
それだけです。
神社へお参りに行ったことがないという人はあまりいないと思います。
そのお参りを少しだけ丁寧にしているようなものです。 日本人であれば多くの人がお参りしたことがあるでしょう
宗教とかそういう概念ではなく、
日本というこの場所に太古の昔から暮らしてきた人々が、していたであろう“祈り”ということを改めてやっているだけかもしれません。
今回のお行では、海外出身の方は先達助手のリックさんを始め、男女含め4名参加しています。
もっといえば、現役の僧侶の方も参加させておりました。
大切なことは
人として知るべきことは何なのか? 人としてやるべきことは何なのか?
ということです。
今、この地球上では温暖化、沸騰化し自然災害が多発するようになりました。
どんなに便利で機械的な世の中になろうとも、自然が成り立たなければ食べ物もともすれば、水も空気でさえもなくなっていくかもしれません。
人が自然であるのであれば、自然を無下にすることはあってならないのです。
そういうことが解れば、だれでも出来ることをやるのみ。
人種、性別、その他諸々の垣根を越え
地球に生きる人としてやるべきことをやる。
時に無力な存在かもしれないけど、祈るのです。
祈りは、お願いではなく
自分自身と向き合うものなのです。
時には災害となるような牙を剥くのも自然。
1/fのゆらぎ、癒しを与えてくれるのも自然。
自然を敬い、恐れ、共に暮らしていくことが大切なのだと思うのです。
人が生きていくためには、一次産業的な生業と共にあるべきもの。
人がより便利に暮らすことを考えると、二次産業、三次産業が増えていきます。
一次 → 三次 へ
すなわち、自然からどんどん離れていくのです。
ちなみに建築的にいうと
大きくは、家も鉄骨やコンクリートになったり...
コストや量産、均一化のために自然素材が少なくなっていきます。
暮らし方も
窓が小さくなったり、開かなかったり 便利な場所での暮らしを優先して、自然がない場所となっていたりします。
これからあるべき家の在り方はー
迷ったら原点に戻るように
少しだけ原点に立ち返る必要があります。
自然災害に強い家をつくり、暮らすこと。
自然環境を悪化させないつくり方、暮らし方が出来ること。
人間のわがままを出来るだけ少なくして行くことが大切なのです。 なったことに対処することよりも そもそも、新たな対処すべき事象を起こさないようにする。
便利を追求すると、 戻るどころか上書きの連続となり、元が何だったのかさえ判らなくなってしまうかしれません。
なので、便利すぎない暮らしをする。
便利すぎない=あえて時間をかけてみる
こうしたゆとりのある感性豊かな暮らしを心がける。
そんな時間の使い方が出来たら、きっと笑顔が増えていくと思うのです。
自然と家。 自然のある暮らしは、里山にあるはずです。 その場がいわゆる“里”でなくとも
里にある田畑や森や川を感じるような暮らし方がきっと“豊かな暮らし”になる。
私の生業は、里山、里を感じる暮らしをつくりつなぐことなのだと思っています。
無言行の側面。
我や意志を持たないということだけではなかった。
無言ということ。
は、
言葉という便利なツールを持たないということ。
これは、アウトドアを愉しむことと同じとも感じた。
アウトドアは、非日常の場所に行き自然の大きさを感じながら自分自身のちっぽけさを知る機会にもなる。 基本的に動力を使わず、己のチカラで自然と向き合うことが多いもの。 不便という時間が、自身と自然とが一体になることにここちよさを感じさせ、愉しむものかもしれません。
そして、また日常の日々へと戻る。
あえて、面倒なことをして
日々の有難みを知ることにもなっていました!
言霊という大切な意味を実感したのも無言だからこそ。
ふだん、持っているものを使わない。
使えないということは、自ずと受け入れることしかできなくなるのです。 “うけたもう”という世界に身を投じるのです。
ふだん当たり前に使っているスマホを持たない。 時計すらも持たない。
今が何時なのかもわからない3日間
すべてが“なすがまま”
けれども、やらされるものではありません。
すべきことを与えられ
率先して向き合うという、気づきの多い時間でもありました。
行の途中で思っていたこと... 指示される言葉。
用語が判らないことは、きっと日本語が理解できない外国籍の方々と同じ状況だったこと。 日本語なのに解らない。
なんのハンデもないのにちょっとドキドキな時間もありました。
それでも経験者さんたちの行動をみながら、できることを探す。
そんなことをしておりました~
音を感じ、人の持つ五感を活かす。
人の声という音を発する。
人と人が関わり合う、その社会に人間として価値が生まれる。 その声が調和することで、叶うものがある。 考えや意識が同じ方向を向き、達成できることがある。 日々の声も
勤行の声も 同じように我を出さずにバランスや調和を大切にする。 修行の日々の中には
日常への気づきがたくさんありました。

星野先達の言葉を胸に 三山をめぐり、最後に出生式、火渡りを超え
新たな自分を意識しながら、またこの時間を迎えたいと思っています。
修行をしたことで私たちのつくる家の性能が上がる訳ではありません。
なぜ、高性能化をしなければならないのか。
その意味を体感し、自然を敬い恐れ共に暮らすことを実践するために
地域の暮らしを守る一企業人として、伝え繋ぐことを目指しています。




少し時間が経ち、
改めて月曜夜からの想い振り返り
文字にしておきたく書き綴っておきます。
今回も最後まで読んで下さりありがとうございます♪
私たち那須住宅は栃木県大田原市、那須塩原市、那須町を中心に高気密高断熱住宅を自然素材を使って新築・リフォーム・リノベーションの設計、施工を行っています。
耐震等級3(許容応力度計算)・UA値0.3・C値0.3・自然素材でつくる工務店です。
コメント